狸のしっぽ タイランド編  2006年、2007年、2008年



NO.28 2006.4.28  <タンブンツアー>


信仰心の篤いナンさん(お手伝いさん)は、私にとって、時には母親のようでも
あり、時には友達であり、時には人生の師でもある。
お寺に行って、徳を積むこと(タンブン)が、喜びであるというナンさんと一緒
に暮らしていると、煩悩にまみれた私でも、少しでも慈悲のある人になってゆ
こうという気持ちになるものである。

ところで、タイ語を学ぶことはすでに放棄している私だけど、ナンさんは熱心
に日本語を学び続けている。さらに、仏教徒のナンさんは、真理を学ぶ意欲が
ある人なので、彼女が読みたいという「神と人間」という日本語の本を、少し
ずつタイ語に訳してもらうために、リーさんという、若いタイ人の女性に家庭
教師に来てもらっている。
リーさんはまだ独身で、タイ人のボーイフレンドもいるけれど、できれば日本
人と結婚したいと思っている人だ。

そして4月のある日、私達三人は、運転手のワタナさんに車を運転してもらって
カンチャナブリーと、ミャンマーの国境に近いサンクラブリーに、二泊三日で
旅行をすることにした。
泊るところも決めず成り行き任せ。いざとなればお寺に泊ればいいと、ナンさん
は言う。

車の中で、私とリーさんは、彼女の恋愛の話で盛り上がる。そしてワタナさんと
助手席に座ったナンさんも、何か楽しげに話し続けている。
ワタナさんは、三歳の娘を田舎の両親にあずけて、奥さんと二人でバンコクで働
いている人だ。ナンさんと同じイサン(東北地方)出身なので、ナンさんは、お昼
にイサン料理を作った時には、ワタナさんにもあげたりしている。ワタナさんも、
田舎に帰った時には、ナンさんに家でとれた青いマンゴーなどを持ってくる。
そんな二人が話しをする時は東北なまりの方言で話しているらしい。

バンコクから車で三時間ほどで、カンチャナブリーに着く。そしてサイヨーク
ヤイ滝がある国立公園で一休みする。
森の中を散策したり、川に入ったりしてから、昼ごはんとなった。
何軒か並んだ屋台の前の木陰に、イスとテーブルが置いてあったので、そこに
座って料理を注文する。
ソムタム(青パパイヤのサラダ)二種類、肉と野菜の炒め物、オムレツを油で揚
げたようなもの、魚ときのこのスープ、魚のからあげ、肉とか魚のすり身のだ
んごに甘酢だれをつけるもの、もち米のごはんと白いご飯。

ところが、そこにハエがたくさんやってきた。手で払いながら食事をするのだ
けど、それでは追いつかないので、団扇をかりて、追い払いながら食事をした。
「日本にもハエはいるのか」と、ワタナさんに聞かれた。
「今は、あまり見かけなくなったけど、昔はハエ取りリボンというものが家の
中にもぶらさがっていて、ハエが真っ黒にくっついていた。」と、私は答えた。

食事が終わり、ごはんと魚が残った。ナンさんはビニールの袋をもらってそこ
に残りものを入れる。犬にあげるためだ。
犬はナンさんのお友達。道を歩いていても、ナンさんは犬を見かけると声をか
ける。犬も振り向いてナンさんの顔をみつめたり、ついてきたりする。

そして私達は、クウェーノーイ川上流の、カオレムダム沿いにある、サンクラ
ブリーへと向かう。
このダムは南北の長さが100キロはあると言われるタイ最大規模の巨大なダムで、
ダムによってできた湖には、いかだの家が浮かんでいて、のどかな景色が広がる。
サンクラブリーは、ダムができたために、湖の底に村が沈んだところである。
そして、寺院の後などが、少しだけ湖面にでていたりする。
年に一度、水がなくなって、歩いてその寺院を見ることができる時もあるという。
さらにここには、ミャンマーから移動してきたモン族が住む村があり、湖にかか
った長い木造の橋を渡って、その村へ行くことができる。

サンクラブリーに着いて、まずは泊るところを捜す。
ここは観光地なのでバンガローなどが色々ある中で、私達三人は、モン族の橋の
そばの一泊1200バーツ(3600円)のホテルに決める。テレビ、エアコンつきだ。
ワタナさんは、自分で泊る所を捜して、湖に浮かんだいかだの家の一部屋を借り
ることにした。一泊200バーツ(600円)で、シャワー付きトイレと、蚊帳と毛布ぐ
らいがついている小さな小屋のような所である。

そして私達四人は、日が沈みかけた湖で、観光ボートに乗って、夕焼けの景色を
楽しんでから、長い橋を渡ってモン族の村に行った。
木造の高床式の住居で暮らしている村の様子は、ナンさんの家があるイサン(東北
地方)の農家の様子と似ていて、懐かしい感じがした。
日が暮れて暗い道には明かりがなく、ところどころにある店の明かりや、戸を開
け放した家々からもれてくる明かりが、小さな村のささやかな営みをいとおしく
感じさせた。


そして次の朝。
私が起きたときには、早起きのナンさんは、ホテルの庭で太極拳をやっていた。

私達はもう一度橋を渡って、モン族の村を見学してから、車に乗ってモン族出
身のお坊さんの建てたお寺に行った。その時、空には小さな雲がたくさん浮か
んでいて、澄み切った青空を背景にしたそのお寺は、とても美しくて、天国の
景色のように見えた。

それから、ミャンマーとの国境にあるスリーパゴダパスへ行った。そして、そ
の場所で手続きをして、ミャンマーへ入って行った。
目に入る看板の文字が、タイ文字とは違うけれど、そこではタイ語が通じた。
そして土産物を売る市場で、ナンさんは布を買った。自分のスカート用と、私
のパジャマのズボンを作ってくれると言った。

それから、山のふもとにあるミャンマーのお寺に行った。
そこには、お釈迦様を先頭にして、その後ろに托鉢の弟子が百人以上も、一列
に長く付き従っている像が立っていた。
一体の大きさが二メートル以上あって、とても不思議で印象に残る景色だった。
そのお寺の中は、床もたくさんの太い木の柱も黒光りがしていて、静かで美し
い空間だった。
そこで、私とナンさんは、お坊さんのお清めを受けて、数珠をもらった。

ミャンマーから戻って、昼食をとってから、私達は、サンクラブリーとカンチ
ャナブリーの間にあるトンパプーンに向かった。
ナンさんが、20年前に、その辺りの森の中にあるお寺に来たことがあるので、
是非そこに寄りたいと言ったのだ。

お寺への入り口を見つけ、細い道を車でしばらく進んでいくと、森の奥に滝が
あって、その先に木造の、手作りのお寺があった。
宿坊なども、手作りの小屋のようで、質素で自然なところだった。

ところが今はタイの夏休みなので、いつもは7人ほどのお坊さんしかいないと
いうその場所は、150人ほどの子供達と、バンコクのお寺から手伝いに来てい
るお坊さんや、まかないの女の人達で賑わっていた。

仏教国タイでは、夏休みに一ヶ月ほど、希望する子供達がお寺で、お坊さんや
尼さんの姿になって、お経や色々なことを学んだり、ボランティア活動をする
ということが、各地のお寺で開催される。
今回一緒に行ったリーさんも、高校生の時にそういうお寺でのサマースクール
に参加したことがあり、親への感謝の気持ちに目覚めたという。
お寺で過ごしお坊さんの話を聞くうちに、日頃の自分を振り返り、反省し変わ
ってゆく子供がいるのだという。
タイでは、お寺が地域の人達に開かれた心のより所であり、教育の場でもあっ
た。そしてその伝統は今も生きている。

そして今回、このお寺に来ていたのは、普通の学校に通えなかったりする、貧
しいカレン族の子供達だった。普段はまともな食事もとれないので、お寺での
質素な食事さえ、彼らにとってはご馳走だという。
お金がないために病院にいけず、ここに来て、マラリアが発病しお坊さん達が
病院に連れて行った子供もいるという。

タイでは各地のお寺に、人々がお金やものを寄付すると、お寺がそれを必要と
している人達に分け与えるということが、日常的に行なわれている。
そしてお坊さん達は、厳しい戒律を守り、読経と瞑想の日々を送り、誰もが同
じ一枚の布を巻きつけただけの服装で、最低限の質素な暮らしをしている。
もちろんすべてのお坊さんが、欲望を絶ち、人々に尊敬され信頼される人であ
るとは言えないと思うし、寄付されたお金で随分立派なお寺を建てているなぁ
と、思うこともある。それでも、こういったシステムが社会の底辺を支えてい
るのは、素晴らしいことだと思う。
そして今回ナンさんは、私達の古着を袋につめて、このお寺に持ってきていた。

ナンさんは、一人の親切なお坊さんと、ずっと色々なことを話していて、なか
なかここを去り難いようだった。
そして私達は、そのお坊さんに、「良かったら、ここに泊りませんか。」と誘
われた。「電気はないけど、ろうそくの明かりがあるし、美しい自然に囲まれ
て涼しいし、蚊もいませんよ。」と、そのお坊さんは言う。

心がゆらぐ。どうしょうかなと迷う。お寺には二度ほど泊ったことがあるので、
電気がなくても、トイレでは紙ではなく水を使うだけでも、床にゴザを敷いて
寝るのもかまわない。夕食がないのも我慢できる。
ナンさんは、ここに泊りたくてたまらない様子だ。でも、あとの二人はそれを
望んではいないと思う。

ということで、私達はひとまず、そこを出ることにした。
この日は別の観光地に行ってから、トンパプーンのどこかのホテルに泊まる予
定だった。
そのお坊さんは、「もし泊るところが見つからなかったら、いつでもここに戻
ってきていいですよ。」と何度も親切に言ってくれた。

私達はその後、予定していた場所に向かったものの、地図では近く思えたとこ
ろが、山道を登ったり下ったりで、いつになったら着くのかわからなかった。
日も暮れてきたので、山道の途中で引き返すことにした。
そしてひとまず、町へと戻り、お米、調味料、卵、麺、他、たくさんの食料品
を買った。
お坊さんの話を色々聞いたナンさんが、あのお寺にもっとタンブンをしようと
提案したからだ。そして、町から離れた不便なところにあるお寺では、お金よ
りも必要なものを買って持っていくほうが喜ばれるのだ。

夕食をすませて寺に戻ることを、ナンさんは強く願っていたけれど、リーさん
が、ちょっと体調がよくないと言ったので、寺は却下となった。そして町から
そう遠くない、カオレムダムのそばの、国営のバンガローに泊ることにした。

ツインベットの部屋しかないので、一応二部屋を予約して、私はちょっと迷う。
みんな疲れているから一人ずつベッドで寝たほうがいい。でも、、、。
52歳のナンさんは、ワタナさんとは親子みたいなものだから、一緒でいいかな。
でも、いやかもしれない。やっぱり三対一かなと、私がぶつぶつ言っていると、
ナンさんがタイ語で何か言った。
「何て言っているの?」と、リーさんにたずねた。

ずっと独身で、憧れの男性はお坊さん。お手伝いさんの仕事をやめたら、尼さ
んになろうかなと言っていたナンさんは、言った。
「一生に一度ぐらい、男とホテルに泊まってみるか。」と。


そして次の朝。
私達が、起きて外に出ると、ナンさんはすでにその辺を散策し体操のような
ことをやっていた。
ワタナさんも、いかだの小屋とちがって、サバーイ(快適)だったと言った。

私達は、山に囲まれた美しいダムの湖を見てから、もう一度、森の中のお寺へ
と向かった。
子供達は、お坊さんにお経をならったり、読み書きや他の勉強をしたり、木で
何かを作っていたりもした。

持ってきた食料を、お寺にタンブンしてから、ナンさんはまた、昨日のお坊さ
んと、楽しげに話し始めた。
私とリーさんは山々や滝をながめたりしながら、のんびりと過ごした。

タイに来てから、ナンさんに導かれて、随分色々なお寺に行ったけれど、森に
包まれて滝の音を聴くことのできるこのお寺は、とても気に入った。
いつかまた、今度は泊りにきてもいいかなと思う。

そして、私達は、バンコクへ帰ってきた。

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仏教国タイでは、色々な問題が起きると、全国からお坊さんが集まって、読経
をして祈るということが行なわれる。
王宮前の広場が三万人ほどの僧侶で埋め尽くされ、その周りで一緒に祈る人も
いる。ナンさんも、先日そのような集まりに参加し、とても感動したと言った。

お釈迦様を愛し、その教えを信じている人達がたくさんいるこの国は、目には
見えないけれど、慈悲のエネルギーで包まれているような気がする。

先日読んだ、ダライラマの本の中に、「人間の本性は、本来慈悲深くやさしい
ものである。」と、書いてあった。そして、「幼児は、他の人に喜びと楽しみ
を与える能力および目的を持って生まれてきた。」とも書いてあった。

その言葉をしみじみと受け止め、自分のいのちに感謝しようと思う。
明日は、私の誕生日だ。


NO.29 2006.10.9  <コンケーン旅行>


バンコクに住んで3年4ヶ月になりますが、私はいつも、タイという国をもっ
と知りたいと思っています。ということで、今回はタイの東北部、イサーンの
中心にあるコンケーンというところに行きました。

去年の2月、私は、イサーンのウドンタニにあるナンさん(お手伝いさん)の
故郷を訪れ、貧しい農村の実体を知り、何か自分にできることはないだろうか
と思った。
そして、ある雑誌の記事から、イサーンの子供達を支援するボランティア活動
をしている、杉浦直樹さんのことを知り、ファックスで自分の思いを伝えた。

杉浦さんは、「アジア子供教育センター」という、民間の支援団体の代表をさ
れていて、10年間ほど続けてこられたその活動についての、資料や、機関紙
などを送ってくださった。
そして、活字を目にすることがほとんどない、貧しい地域の子供達には、まず
本を読むことの楽しさ、学ぶことの楽しさを伝えることが大切なのだと教えて
くださった。
杉浦さんは、イサーンの貧しい地域の小学校、保育所、村(寺)を巡回する、
「移動寺子屋教室」を行なっている。それらの学校では、教員が不足していて、
充分な教材もなく、授業も、教科書を読むだけだったりするとのこと。
杉浦さんは、教員の資格をもったニッタヤーさんというタイ人女性と、彼女の
妹のレックさんという二名のスタッフと共に、絵本の読み聞かせや、プリント
学習、歌、工作などを、行なっている。
数校を選び、月に一回、一年間の寺子屋教室を、子供達はとても楽しみにして
いて、この活動によって、学ぶことへの興味を持つ子供達も出てくるとのこと。

この活動を支援しているのは、杉浦さんと縁のあった人達や、日本のいくつか
のボランティアグループの人達だ。
彼らは、支援金や、不要になった学用品や衣類をタイに送り、杉浦さん達は、
寺子屋活動の時にそういったものを持って行ったり、中高生への奨学金支援や、
学校給食の支援も行なっている。

さらに杉浦さんは、日本のボランティアグループの人達や、学生などが、これ
らの活動に参加したり、タイの農村での暮らしを体験する「スタディーツアー」
の世話もされている。そして、そういった体験を通じて心を育てていった若者
が、コンケーンで、杉浦さんの活動を手伝っていたりもする。

このような活動を知った私は、「コンケーンに行って、寺子屋活動の現場を見
てみたい。」と、思ったのだ。
そして今回、一人の友達を誘って、9月19日から二泊三日の予定で、コンケ
ーンへと向かったのである。

私に同行してくれたTさんは、今年バンコクに駐在となった人で、子供が大好
きで、バンコクの幼稚園で、工作教室のボランティアをしている人だ。
彼女は「愉気の会」にも参加していたので、杉浦さんの資料を読んでもらって、
今回の旅行に誘ったのだ。

バンコクから飛行機で一時間ほどでコンケーンに着き、杉浦さんの出迎えを受
ける。ホテルにチェックインしてから、車で市内を回り、市民の憩いの場とな
っている湖を見た。
東北タイの中心都市であるコンケーンは、整備された町並みを持ち、郊外には
大学がある。とはいっても、バンコクとはまるで違う、小さな田舎町である。
タクシーもバイクタクシーも観光客の姿も見当たらない、のんびりとした町だ。

それでも、コンケーン大学は、とても大きかった。たくさんの学部があり、私
は、北大を思い出したけれど、その何倍もの広さがあり、敷地内には、教員の
住宅などさまざまなものがあり、まるで一つの村のようだった。
杉浦さんの奥さんは、この大学で日本語を教えている。

そして、その夜、私とTさんは、杉浦さんに教えていただいたホテルの近くの
屋台で夕食を食べ、露店でマンゴーを買い、ホテルで食べた。
それから、お互いに背骨や体をゆすりあったりして、体をほぐして、就学旅行
の夜のように色々なことを話して、おだやかな眠りについたのだ。
まさにその時、バンコクではとんでもないことが起きているとも知らずに。

9月20日の朝、私達は、バンコクでクーデターが起きたので、学校が休みに
なり、予定していた活動も中止になったことを知らされた。
よりによって、なんでこの日なの!
それより私達は、バンコクに帰れるのだろうか?

なるようにしかならない。そして、災いは転じて福となった。

今回私達は、コンケーンから一時間半ほどのところにある学校での寺子屋活動
に参加し、その後は杉浦さんの事務所で、ビデオを見たりして色々話を聞くこ
とになっていた。
でも、活動が中止になったので、それならば、みんなで(杉浦さんと二人のス
タッフの女性、たまたま、杉浦さんの事務所に居た日本人女性と私達の六人で)
タッファー村に行こう、ということになったのだ。

杉浦さんは、イサーンの村々を200以上見てまわり、どこも似たような状況
だと言う。タイに外国の企業が入り、村人は貧しさから出稼ぎに出て働くうち
に、拝金主義にそまってしまうのだという。
そんな中で、この村にはまだ素朴さが残っているということだった。四年前に
電気がついたというこの山奥の村との出会いは、一人のお坊さんがきっかけだ。

寺子屋活動のスタッフであるニッタヤーさんの村に、とてもいいお坊さんがい
た。そのお坊さんが、貧しい山奥の村人達に乞われて、そこに小さな庵をたて、
村人達の支えとなっている。その村に行ってみようということで、杉浦さんと
この村との交流がはじまったのだ。
そのお坊さんは、村人の心を育てることを一番大切にしている。さらにその暮
らしが少しでも楽になるように、離れたところにある池の水を村人の畑で使え
ないだろうかと、考えたりもしていたという。
杉浦さんは、この村でも、寺子屋活動を行い、六人の子供達に奨学金を支援し
ている。そして、この村には日本から来た学生達なども滞在し、村人との交流
を深めている。

タッファー村に向かう途中の山道には、深いわだちがあったりして、四輪駆動
の車でも動かなくなることがあり、雨が降れば、村へと通じる橋に水があふれ
通行が不能となる。そんな道を走って、コンケーンから二時間半ほどで、私達
は30世帯ほどの人が住む山奥の村に着いた。

村には女性達と、ハンモックの中で眠る乳児から中学生まで、十数人の子供達
がいた。ニッタヤーさん達は、村人とはすっかり顔なじみで、さっそく、一緒
に昼食の準備にとりかかった。
家の外にある、テーブルとベッドとイスを兼ねているような大きな台に腰掛け
てくつろいでいると、子供達が、きれいな花を摘んでは持って来てくれた。
Tさんはさっそく、乳児を抱っこしてあやしたり、子供達と楽しそうに遊び始
めた。

この村では、誰がどこの家の人かわからないくらいに、大人も子供も一つの家
族のように、お互いの家を行き来し、互いに助け合って暮らしている様子が感
じられた。
イサーン地方には竹が多く、この村の家も竹を使ってつくってあった。
この村は、自給自足で、水田ではなく畑でとれるもち米と、野菜とたけのこが
毎日の食事で、ニワトリも少し飼っているけれど、肉やたまごはめったに食べ
られないとのこと。
家畜の飼料になるとうもろこしと、野菜を栽培して現金を得ているけれど、そ
れだけでは足りないので、サトウキビ農家などに、出稼ぎに行くらしい。

この日のお昼は、ゆでたてのたけのこと、香草と一緒に炒めたたけのこ料理、
ソムタム(青パパイヤでつくったサラダ)、生のままで食べる葉っぱの野菜と、
何かの植物の軽くて太い茎の部分、それに私達が持参した卵で作った、玉子焼
きとかまぼこもあるという、ご馳走であった。
大きな台の上に、ご馳走を並べ、村人と私達はその台の上に腰掛て、楽しく食
事をした。もち米のごはんは竹で編んだ籠に入っていて、それを少しつまんで
は手の平の中で丸めて食べるのがイサーン式である。

食事の後で、私達は子供達と一緒に、子供達がいつも水浴びをする滝を見に行
くことになった。その途中で、レックさんがステキな遊びを教えてくれた。

道端にはえていた葉っぱの大きいある植物の、葉と茎の境のところをそっと折
ると、そこにねばねばしたものが出てくる。その部分をそっと吹くと、ちいさ
なシャボン玉ができて飛んでいくのだ。子供達にとっても、それは新しい発見
だったようで、私達はしばらく、この可憐なしゃぼん玉を飛ばす遊びに夢中に
なった。

それから、私達は草の茂った道を通り、急な山道を慎重に下って、滝に着いた。
川の流れはそれほど激しくはなく、滝は、階段状になっていた。私達はさっそ
く靴をぬいで、水の中に入った。石がぬるぬるしていて、すべりそうだったけ
ど、子供達が私達を気づかい手を貸してくれた。

滝のそばでしばらく楽しんでから、私達は、山のお寺に行った。
そこには小さな庵ではなく、村人達が協力してつくった、お寺が建っていた。
といっても、床と屋根と柱だけで、壁はなかった。そして、以前のお坊さんは、
チェンマイの山奥に行き、今は別のお坊さんがいた。
タンブンをして、お坊さんの話を聞いていると、雨が降ってきた。
雨が強くなって、橋が渡れなくなったらこまるので、私達はすぐに、村を出る
ことにした。(お坊さんは、ここに泊ってもいいと言ったけれど。)

そして、帰りの車の中で、杉浦さんは、タッファー村で始めて、大学まで進学
できたヌットさんの話をした。
彼女は21才。奨学金で高校までは行けたけれど、その後はお金がない。性格
も良く、優秀な人で、村人も彼女を応援している。それで、両親がお坊さんに
相談したところ、チェンマイに農業大学があるのでこちらに来なさいという。
両親は借金を重ねて、彼女を大学に行かせた。でも、あと二年というところで、
お金が足りなくて困っている。ということだった。
彼女は、学校が休みの時は働いていて、大学を卒業したら、村のために学んだ
ことを生かしたいと思っている。ということだった。
その話を聞いて私は、ヌットさんを支援しようと思った。これは縁だと感じた。
意図したわけではないのに、いくつものことが重なって、私達は出会ったのだ。

そして次の日、私達は杉浦さんの事務所で、活動の様子を撮った写真を見せて
もらった。その中には、昨日、タッファー村で一緒に食事をした、ヌットさん
のお母さんの姿もあった。

ファーという言葉はタイ語で「空」という意味だ。山の上にあるので空に近い
ということで、タッファー村と呼ばれているのだと思う。
今までは知らなかったその村が、今はとても、身近で懐かしく感じる。

そして私達は、無事にバンコクに戻ってきた。クーデターといっても、タイの
場合は、それほど緊迫したものではなく、街はすでに、普通どおりだった。


今回、杉浦さんから、色々な話を聞かせていただいた。印象に残っているのは、
「常に、支援される側の視点に立つこと。そして現場を見ることで、今ここに
何が必要かがわかる。大きな組織が、多額のお金をかけたからといって、必ず
しも、それが支援される人達の幸せにつながらず、ムダになっていることが随
分ある。」という言葉だ。

今、さまざまな援助を必要としている人達が世界中にたくさんいる。
そして、国、色々な組織、グループ、個人がそれらの人々を支援している。
現場での労働での支援、お金や物での支援、励ましの手紙での支援、祈りによ
る支援など、それらはすべて、人が誰かのためにエネルギーを送る行為である。

どんなに立派な活動でも、自分に縁がなければ興味はわかないけれど、縁があ
れば、なぜか心ひかれて、関わってゆくことになり、そこに交流が生まれる。
それは、支援をするとかされるということではなく、人が互いに学び、育ちあ
うための出会いとなる。

確かに、育った環境や価値観の違う人と関わることは、難しい。
自分が体験しないことはわからないし、それによって人を傷つけることがある
かもしれない。それでも、人と関わり、つながってゆこうと私は思う。

♪つながってゆく時に、いのちは輝きをます。♪

心や体の触れ合いを通して、エネルギーは交流し、良い循環が起こる。
エネルギー(お金もエネルギー)がよどみなく流れて、自分の中、自分のまわ
り、社会、国、世界中に、良い循環がおきますように。

世界人類が平和でありますように!

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去年、ナンさんの村から帰ってから、私はタイの本を見てまわった。その時、
タイ語に訳された日本語の本のコーナーで、子供向けに書かれた、宮沢賢治の
自伝と童話が載っている本を見つけた。それには私が賢治の作品の中で一番好
きな、「セロひきのゴーシュ」も載っていて、私はとても嬉しかった。

宮沢賢治といえば、貧しい東北の農民のために生きた人。私達の国でも、つい
最近までは、タイのイサーンの人々とかわらない生活の人達がいたのだ。
そして賢治の生き方は、色々な面で村人の支えとなっている、タイのお坊さん
のようだ。
ナンさんは、その本を夢中になって読んで、すっかり賢治のファンになった。

私は、いつかヌットさんにも、この本を送ってあげたいと、思ったりもする。


NO.30.2007.3.21 <ゆっくり、小さく、ひと休み、楽に、ね>

色々なことがありますが、私がいつも目差していることは、自由と平和です。
そして今、それについて頭であれこれ考えるよりも、それを体で体験すること
の大切さをしみじみ感じています。

私は去年の5月から、バンコクに住む日本人の先生(村井さん)にフェルデン
クライスメソッドを、指導していただいています。
NHKの「まる得マガジン」という番組でも、とりあげられた、フェルデンク
ライスメソッドは、リハビリや、スポーツやダンスなどの技術の向上に、役立
つメソッドです。
そして何よりも、私達が、日常生活をもっと楽で、効率のよい体の使い方をし
て過ごせるようになるために、必要なレッスンであると思います。
さらに、体で気づいたことは、心の気づきをうながし、私達を幸せへと導いて
ゆく助けとなると感じています。

このレッスンを受けてみて、私は今までとは違ったやり方を学ぶことの難しさ
と、大切さを体験しました。

具体的にどんなことをやっていくのかを、少し説明します。

床の上に仰向けになり目を閉じます。そして自分の体と床の接触の状態を先生
の声かけに従ってチェックしてゆきます。
たとえば、体の右側のほうが床から浮いている感じがするとか、足の長さが左
右で違うように感じるとか、今の自分の体の状態に気づいてゆくのです。

それから、先生の指示にあわせて、体を動かしてゆきます。
その時に、けっして力を入れて無理をして動かさずに、ゆっくりと、小さく動
くことで、体の中で固めているところ、緊張しているところなどに気づいてゆ
くのです。
そして私には、それがなかなかできなかったのです。

たとえば、膝をたおすように指示されると、無意識に、力を入れて、より深く
倒そうとしてしまうのです。
たくさん動けること、理想的な美しい動きをすることが正しいのだから、努力
してそれを目差さなければならない。という価値観が心と体を支配していて、
無意識にそういうパターンにはまってしまうのです。
まずそのことに気づけるようになるというのが、始まりでした。

このレッスンで求められているのは、今ここの自分の体の状態に気づくという
ことです。力を入れて動いてしまうと、自分の体にあるこわばりを感じること
はできないのです。
そして、まさにそこに気づくことから、体が変わってゆくのです。

たとえば体を曲げたりする動きをやってみて、これ以上は動かないというとこ
ろで、体のどこかを固めていないかをチェックします。そしてその部分をゆる
め、力を抜いてゆくと、体はさらに動くようになります。

このようにして、一つの動きを行なうのに体をどこも緊張させずに動くことで、
より豊かに美しく動くことができるということを学んでゆきます。

さらに、自分では、これ以上曲がらない、動かないと思っていても、たとえば、
あばら骨のあたりとか、膝とか、どこでも、体のどこかに、人から手を当てて
もらうと、その部分に意識がいき、それまで動いていなかったその部分が動く
ようになります。
それを初めて体験した時、私の心に感動がありました。「これは愉気と同じだ。
やさしく寄り添うように触れられると、その部分の細胞は活性化し柔軟になり、
生き生きしてくるのだ。」と感じたのです。

このようにして、体のすべての部分を協力させて動く時、本当に気持ちが良く、
どこにも無理がかからずに、しなやかでパワフルな動きができてしまうのです。

これらは、体を鍛え筋肉の力によって強く大きく動かそう、理想的な動きをし
てゆこうというのとはまるで逆のやり方です。でも結果的に、その人の体が持
っている能力を最大限に引き出すことを可能にしてゆくのです。

私はフェルデンクライスのレッスンを通して、たとえ年をとって体力や機能が
衰えていっても、もっと自由に、楽に、効率よく、しなやかに、動くことので
きる体になってゆけることを知ってとても嬉しくなりました。


ところで、フェルデンクライスというのは、イスラエルの物理学者の名前です。
彼は、柔道で痛めた膝を悪化させ、医者からは、歩くことができなくなると言
われますが、脳神経や筋肉の特性、人間の発達していくプロセスに関すること
を学び自分で治してしまいます。それは赤ちゃんが、自分の体をあれこれ動か
しながら、ねがえりをうち、やがて、立ち上がるというやり方と同じです。
これが、フェルデンクライスメソッドの始まりです。

フェルデンクライスメソッドでは、無理をせず、呼吸を楽にしたまま、小さく
ゆっくり動きながら、痛みを感じないで楽に動ける場所、方向などを捜してゆ
きます。そしてその範囲で動いていると、楽に動ける範囲が広がってゆきます。

体でこのことを実感した時、私は、これは他の場面でも通用すると思いました。
生きてゆくなかで遭遇する、身動きのとれない状況を変えてゆくには、無理を
せず少しでも動くとこから、ほんの小さな働きかけから始めてゆくのもいいと
いうことが、わかりました。

レッスンの中で、村井さんは、背骨ファミリーとか、あばらファミリーという
言葉を使って、すべての骨が協力して動くことの大切さを教えてくれました。
それは、たとえば家族の中で、だれか一人が頑張って仕事をしているのに他の
人達は休んでいたら、頑張って仕事をした人は疲れてしまう。みんなが力を出
し合って協力すれば楽にできるということです。

私達は、たとえば、胸や背中のあたりを固めて動かさずに、腰のあたりだけを
動かしてそこを痛めてしまいがちです。そして、自分が酷使して痛めてしまっ
た腰なのに、「腰が悪い、腰が弱い」と言って、そこだけをなんとかしようと
します。でも本当は、体の他の部分も動かすようにして、腰の負担を減らせば
いいということなのです。

体の一部だけが頑張って動くとそこを痛めてしまうけれど、体のすべての部分
がその動きに協力すると、楽に美しい動きができるという事実を体で体験でき
た時、私はとても幸せで調和のとれた気持ちになりました。
そしてこんな感じをそのまま、人間関係の中で実現したいと思いました。

ということで、私はこの一年で、自分の体が楽になり、自由に動けるようにな
ったのを感じています。と同時に、自分に対しても人に対しても、以前より、
平和的にしなやかに関わってゆけるようになったと思います。

フェルデンクライスメソッドは、日本ではまだそんなに知られていませんし、
誰でもが、このレッスンを受けられるわけではありません。そして、体を育て
るために、他にも色々なやり方があると思います。
それでも、私が自分で体験して思うことは、子供達の体を育てる教育の現場に、
このレッスンの考え方を取り入れることで、今、子供達が置かれている、息苦
しい状況に、明るい変化をもたらすことができると感じます。

「ゆっくり、小さく、ひと休み、楽に、ね」というのが、このレッスンの時の
合言葉です。
「早く、たくさん、頑張って」と、今まで言われてきたことの、反対です。

力を入れっぱなしでは苦しいです。時には力をぬいてめるめることが必要です。
ゆるめることができてこそ、必要な時に力を上手に使えるようになるのです。
でも、私達は、それができない心と体になっているのではないでしょうか。

それに気づき、それを変えてゆこうとすることで、私達の心と体に自由と平和
を感じる喜びを広げてゆきたいと、私は思います。

フェルデンクライスレッスンを指導してくださった村井さんは、レッスンの中
に、躁体法やゆる体操などを取り入れ、私達が自分で体をゆるめたり、整えて
ゆくやり方について、色々教えてくださいました。
6月には日本に帰られるそうなので、日本でのご活躍を期待しています。

村井さんのホームページ http://blog.livedoor.jp/yuki_mls/

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去年の12月から、元気に活動する時と、体調をくずして何もできずに寝てい
る状態を交互に繰り返してきました。そんな中で嬉しかった出来事を二つ。

その1
去年の秋、日本人会の文化祭の時に、ゴスペルを歌うグループがあることを知
って、なんだか楽しそうだったので、即入会しました。
そして、今年の3月11日に、バンコク混声合唱団のコンサートの客演として、
250人程のお客さんの前で、四曲歌うことができました。
「天使にラブソング」という映画の中で歌われた、明るい内容の歌などを、仲
間と一緒に、元気いっぱい歌うことがとても楽しくて、練習の時も本番の時も、
幸せな気持ちでした。
で、コンサートの次の日から、ダウン。軽いめまいがあったり、頭が重苦しか
ったりが一週間ほど続きました。

その2
友達のご主人が足首を骨折して、色々と不便な様子だったので、少しでも早く
良くなって欲しいと思って、日本で、野口整体の愉気を教えていただいていた
長谷川先生に相談して、「愉気」をさせていただくことにしました。
まず、友達に「愉気の会」に参加してもらって、やり方を覚えてもらいました。
そして、会社が休みの土曜日に友人宅に行き、静かな音楽をかけてもらって、
二人で手を当てていると、ご主人は気持ちよさそうに眠ってしまいました。
ギブスの上から手を当てている私もなんだか楽しい気持ちで、頑張って働いて
こられたご主人の体に感謝しました。
そして、ギブスがはずれた次の日、3月17日、私の体調はいまいちで、ちょ
っとふらつく感じもあったのですが、友人宅に行きました。
ありがたいことに、「愉気」をしていると、私も元気になってくるような感じ
がして、こっちのほうこそ癒されていると思いました。

村井さんから、「きっと体に緊張が残っているからそれをゆるめるといいよ」
と、アドバイスをいただき、私は、どうするのが一番いいかを、自分の体であ
れこれ何度もためしてみました。
そして、ひらめいたのが、日本に居た時に、河野先生から学んでいた「快気法
(あくび体操)」でした。今のご主人には、これがいいと思ったのです。

ということで、その日、愉気が終わってから、杖をついて、足を引きずるよう
にして歩くご主人に、イスに座ってもらいました。
そして、あくびをしながらのびをしてもらって、その腕に手をそえて、ほんの
少しだけ軽く抵抗を与えながら、私も一緒に気持ちよく、のびをしました。
それだけで、上半身がほぐれて随分軽くなったとご主人は言いました。さらに、
ソファに横になってもらって、足を一本ずつ気持ちよく感じるほうに動かして
もらって、軽く手をそえのびをしてもらいました。

そして、「あれっ。これはどういうことだ!」と、みんなびっくり。
杖を使わないで、なんとか歩けるようになったのです。
私にとっても、初めての体験で、感動して嬉しかったです。
そして、このような機会を与えてくださったご主人に心から感謝しました。


NO.31.2007.6. 9  <日本への旅 その1>


サワディーカ。私は、この二ヶ月の間に、二度、日本に帰国し、色々なことを
体験しました。それは、自分を確かめてゆく旅のような日々でもありました。

タイのお正月は一年で一番暑い4月の中頃で、パートナーのヒデさんの会社も
一週間ほど休みとなる。
ということで、「日本に行きたい。温泉に入って日本食を食べる旅がしたい。」
というヒデさんの希望で、三泊四日、四国一週のツアーに申し込んだ。
バンコクに住んで丸4年。色々な所に旅行したけれど、二人だけでこんな旅行
をするのは、新婚旅行依頼なので、私達はとても楽しみにしていた。

ところが、4月4日頃から、咳が出始めて、熱が出て風邪ぎみになってきた。
困ったなと思ったけれど、今まで、計画した旅行には必ず行けていたので、今
回もきっと行けると確信していた。行けなくなるという気が全然しなかった。

そして、4月6日の夜、私達は、バンコクの空港に向かった。
でも、出発の飛行機を待つ間に、だんだん体が辛くなってきて、日本へと向か
う飛行機の中で、今回はだめだなと感じた。
7日の早朝、日本に着き、そのまま名古屋駅前のホテルにチェックインをした。
そして、その日から6日間、私はそのホテルで寝て過ごし、ヒデさんは一人で
旅行に参加した。

39度の熱を出すのは久しぶりで、そのこと事態はちょっと嬉しいことだった。
風邪をひくのは、自分の中の大掃除のようなものだから。でもなんで、よりに
よって、こんな時に、こんなことになるのだ。
7日の夜に、娘がホテルに来て私の様子を知り、日本でお世話になっている、
野口整体の先生に知らせてくれたので、8日の午後には、先生にみてもらい、
「心配なことはない。食べないで、体を休ませていればいい。」と、言われ、
ひとまず安心した。

熱は少しずつ下がっていき、眠ったり目覚めたりという時間が、ゆっくりと流
れてゆく中で、私は色々なことを思った。
「その人が遭遇することは、必然、必要、ベストのタイミングで起きるという
けれど。私はこのことから、何を学べばいいのだろう。」

「千の風になって」という歌が、日本で流行っている。
テレビを通して、その歌を初めて聴いたとき、とてもいい歌だなぁと思った。
この歌では、亡くなった人が、「お墓の中で眠ってはいない、風となって大空
を吹き渡っている」と語りかけている。

そして私は、風となって吹き渡っているのは、今ここに生きている私も、同じ
なのだと思った。
私達は、生きている間も、死んでからも、この世界を自由に吹き渡ることがで
きる存在なのだ、と私は感じている。
そう確信できるようになったのは、私の祈りが、どんなに離れていても、私が
届けたいと思ったところに届いているという体験を、いくつもしてきたからだ。
この肉体だけが自分ではなく、私達は、目には見えない大きな広がりを持った
存在なのだと、私は実感できるようになったのだ。

そして、病気で何もできない私でも、祈ることだけはできると知っていること
が、有難かった。
「世界人類が平和でありますように」と祈ることで、私はこの世界の役に立っ
ているという確信は、暗くなりがちな私の心を明るくしてくれる。
それは、体調がすぐれなくて、寝てばかりいる日々を過ごしてきた私が、人に
迷惑をかけたり、世話になってばかりいる自分を、責めたり、情けなく思う気
持ちを手放そうとする中で、育まれてきたことでもある。

私は、「健康で普通に生活できることが、一番の幸せだ」と思い、それを求め
て色々なことをやってきた。でもそれは、「お金があると幸せになれる」と思
うのと一緒だと思った。
人は、「自分に欠けているものが、満たされるという条件つきでないと、幸せ
になれない」と感じるものなのかもしれない。
そして、幸せを求めて努力することで、色々なことを学ぶのだと思う。
それは、いつの日か、ただ生きているだけで幸せと感じることに気づくまでの
プロセスなのだと思う。

四国旅行から帰ってきたヒデさんは、鳴門のわかめ、ゆずの香りのするお菓子
などをお土産に買ってきてくれた。
天気に恵まれた、今回のツアーの参加者は、定年後の夫婦のカップルばかりで、
一人で参加したのはヒデさんだけだったという。(ゴメンナサイ)

そして、金毘羅さんの長い階段を登った所でしか売っていないという、鮮やか
な黄色の袋に入ったお守りを、私と娘と息子のために買ってきてくれた。
家族の幸せを願うヒデさんの心に守られ、黄色い光で包まれるような気がした。

ということで、12日の午後には、駅前のデパートで必要なものを買い、娘と
の夕食を楽しみ、13日の午後に、病み上がりの体でバンコクに戻ってきた。

風邪のほうは治ってきたけれど、数日後にめまいが始まった。
耳鼻科に行って治療を受けたりして、症状はおさまってはきたけれど、体力は
落ち、疲れやすく、体調はすぐれなかった。

そして私には、毎年恒例で、5月の半ばに、二週間程、日本に帰国する予定が
あった。
こんな体の状態で、無事に行って、帰ってこれるだろうか。と、いう気持ちに
なって、私は遅ればせながらやっと、今自分がなすべきことに気がついた。

自分の体を応援すること。しっかりお手当てをしよう。と思ったのだ。
そして、その日から、毎日、時間をかけて、ていねいに、自分の体中に「愉気」
(愉快な気を交流させること:何も考えずに、ふんわりと手を当てること)を
やり続けたのだ。
そしてその時、私の手を通じて、目には見えない存在が、私にエネルギーを送
ってくれているのだと、イメージするようにした。
いつも「愉気」をする時は、何も考えずにぽかーんとしているけれど、この時
ばかりは、守護の神霊が、私を守ってくれている、私の手を通して、私の肉体
を癒してくれていると想い、それを実感したのだ。
イメージしたことが実感として感じられた時、私は、幸せな気持ちに満たされ、
有難くて、涙が出てきた。

こういう体験をしたのは、私が、長年「愉気」を実践したり、体に触れること
で、体がより調和するほうに変化することを、知っていたからだと思う。
そして、私は、私達が痛みや病んでいる所に手を触れる時、手から体へと伝わ
ってゆくエネルギーは、私達の「いのち」からの情報(私達を調和の中に生か
そうとするエネルギーの波動)を伝えているのだと感じた。
それは、その部分に低迷している誤まった情報に、やさしく語りかける真理の
情報なのかもしれないと私は思う。(それを、たとえば、自然治癒力と言った
りするのかもしれない。)

「いのち」の波動というものが、私達の肉体の中にあると同時に、私達の肉体
からはみだして広がっているのだとすると、私が、目には見えない存在、守護
の神霊と名づけたものは、私達を調和の中に生かそうとする情報(祈り)を伝
える、「いのち」の波動のことかもしれないとも思う。

手当てをはじめてから10日後、私はなんとか日本へと旅立つことができた。
重い荷物は持てないので、必要最低限のものだけを小さなバッグにつめて。
そして、私の中には、「大丈夫。なんとかなる。」という確信があった。

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人間というのは、困ったり、追い込まれたりしないと、大切なことに気づけな
かったりするものなのかもしれない。私の今回の体験も、そんな感じがする。

17年ほど祈り続けてきて、ある時、「私の細胞は祈りのひびきでできている」
と、感じたことがある。
言葉で語ることが難しいことを、それでも、なんとか、伝えたいなぁと思う。


NO.32.12.1 <近況報告>


17年ほど前、「潜在意識と表面の意識とが全く一つにならなければ、人間は本
当に幸福にはなれない。」という言葉に出会いました。
そしてその時、「人生の謎が解けた。」という、感動を味わいました。
私の身に起こる不調和やトラブルが、自分では気づかない自分の心(潜在意識)
のせいで、起こるということがわかったからです。

今まで自分だと思ってきた自分の奥に、その自分をコントロールする得体のし
れない、大きなパワーを持った陰の黒幕のような自分がいる。
そして、自分が思ったり考えたりすることではなく、その、陰の自分が思い込
んでいることが自分の身に起こってくる。
その黒幕の存在を知らない私は、自分が望んでもいないことが起きても、なん
でそうなるのかわからなくて、悩んだり苦しんだり悲しんだりするばかり。

こういう仕組みがわかってからは、その黒幕の正体をつきとめて、その存在に
コントロールされない自分になろうと思いました。
そして自分が思ったり考えたりすることがそのまま現実になってゆくようにな
りたいものだと、思いました。

はじめは、恐ろしくて向き合うことができなかった黒幕の正体は、あらゆる情
報を内臓する巨大なコンピューターでした。
それが、過去からずっと入力され続けてきた、私の知らない気づけない情報に
もとずいて、私の身に色々なことを引き起こしていたわけです。
(今私達の世界は、実際にコンピューターによって、支配されるようになってき
ましたが、それは、私達自身が自分の中に内臓しているコンピューターに支配
されている状況と同じなのだと思います。)

どんなことが入力されているのか知らなくては。そして必要のない過去からの
膨大な情報を消却して、私に必要な情報を入力しよう。

ということで私は、陰の黒幕である巨大なコンピューターに向き合い、こうい
う作業を地道にこつこつやり続けて今日に至っているのです。

それは、自分を知り、自分をコントロールできるようになって、もっと幸せに
なりたい。ということであり、最近は、そのための自己啓発の本などもたくさ
んあるようです。

その中の一冊が、「いつまでもデブと思うなよ」岡田斗司夫 
私は最近この、「レコーディング・ダイエット」の本を読んで、記録すること
の力を再認識させられました。食べたものを記録するだけでやせていくのです。
それは、自分が無意識に食べてしまうものに気づくことで、自分の意志の力で、
食事を制限するのではなく、脳(コンピューター)が、食べることを自動制御し
てくれるという楽なやり方なのです。

このやり方はダイエット以外にも応用ができる。ということで、私も自分の体
に関することを記録することをためしてみました。
すると、自分の体の声が以前より聞こえるようになってきました。

さらに、体に関心を持つようになった私は、以前何度も読んだことのある本を
読み直しました。そして、「潜在意識とともだちになる」ことについて教えら
れ、さらに、今の私の体の不調の原因についても気づかされたのです。
その本とは、「からだの声を聞きなさい」リズ・ブルボー(ハート出版)です。

ところで私は、元気に活動できる状態と、エネルギー切れで休養をとるという
状態を交互にくり返してきました。
その原因を知り少しでも改善したいというのが、私の切実な願いでした。

そんな風なので、私は、年に二回日本へ行き、詳しい血液検査を受けて、鉄の
欠乏による貧血や、ピロリ菌によってただれた胃粘膜を、栄養素の補給によっ
て治療してきました。
そして今年の秋に行なった検査によって私は、「低血糖症」と診断されました。

今までそれがわからなかったのは、空腹時の血糖値がほぼ正常値だったからで
す。でも、今回、ある友人のアドバイスで、五時間かかる「糖負荷試験」を受
けたおかげで、その病気が発見できたのです。
今まで原因がわからなかった体の不調について、その理由がわかったことは、
ありがたいことです。

私は「低血糖症治療の手引き」ー心と身体を狂わす血糖値調節異常ー(マリヤ・
クリニック 院長 柏崎良子)という本を読んで、まだあまり一般に知られて
いないこの病気のせいで、うつ病として扱われている人がいるということを知
りました。
それは、低血糖時に分泌されるホルモンの変動が、感情的興奮(怒り、憎しみ、
敵意、焦燥感、恐怖感、落ち込み、自殺観念)を引き起こしたりもするからです。

血糖値に関係するインシュリンをだす膵臓になんらかのトラブルがあることが
わかり、この症状を食事療法などで改善してゆけることもわかりました。
でも、なぜ膵臓にトラブルが起きたのだろうかという疑問がありました。

そして、先日、リズの本の中の言葉に出会って、その疑問が解けたのです。
「からだの不調は、すべて、あなたの考えあるいは行動があなたのためになって
いない、ということを教えようとしています。」
「膵臓にトラブルが生じると、糖尿病や低血糖症になります。この二つの病気は、
自己評価が低いため喜びを自分に禁じている人がなりやすい病気です。」

私は以前友達が言ってくれた言葉を思い出しました。
「どうして、私なんて、、、。って言うの。そんなになんでもやれているのに。」

それは、つい無意識に口から出てしまう言葉でした。
そして「私なんてどうせ(だめ)」と言うのは母がよく言っていた言葉でした。
そして私には、頑ななこだわりがあって、物質的な喜びを自分に禁じているよう
なところがありました。それは、おしゃれで美しいものに囲まれているのが好き
だった母への反発から、そんなことより、自分の中身を磨くほうが大切だと思っ
たからかもしれません。
本当はなんでもありで、自由に楽しんでいいのにね。

潜在意識は、なかなかしぶといやつです。

こんな風にして気づきながら、一つ一つ、自分を束縛する思い込みを解除してゆく
作業は、これからも続くでしょう。
そして、今の私は、以前より随分自由になりました。
外からみれば、年をとって肉体の衰えはかくせませんが、心は明るく軽やかになっ
て、自分の可能性を信じ、色々なことにチャレンジしようと思っています。

私の自己探求の冒険の旅は続きます。お楽しみはこれからです。ふふふ。


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  < 近況報告 その2 >

あるグループで、タイにおける支援活動について話あう機会があった。

家に帰り、ナンさん(お手伝いさん)に、助けを必要としている子供達について
聞いたところ、あるお坊さんが、エイズの人達のホスピスと、エイズで親をな
くした子供をひきとって育てているところがあるのでそこに行こう。と言う。
やっぱり、そうきたか。と、思った。
このお寺はとても有名で、いつもお坊さんがテレビに出て支援を訴えていたの
だ。それを見て、子供達に同情したナンさんは、そこに行きたいと三年も前か
ら言っていたのだ。そして私はそれをしぶっていた。

私にはエイズに対する理解も欠けているし、心がそこまで開かれてはいない。
なんとなく恐れもあって、まだそういう場所に行きたいとは思わなかったのだ。
ナンさんは、ホスピスと子供達の居るところは、離れているから、子供達のい
る方に行こうという。
それならいいかなと私は思った。

ということで、ある日の午後、お米とお菓子を買って、バンコクから二時間ほ
ど離れた、そのお寺に行った。
そしてそこで、私達は間違いに気づいた。

ホスピスのあるお寺のすぐ近くに子供達の場所があると思っていたのだけど、
そうではなく、その場所は、そこからさらに二時間ほどの所にあるというのだ。
夕方までにバンコクに帰るつもりで来ているのに、これらそこに行ったら帰り
は何時になるのだろう!

私は、ナンさんに対して腹が立ってきた。
あんなに行きたかった場所なのだから、ちゃんと調べてあると思ったのだ。

しばらくの間、お寺の門の前で、どうしょうかと考えた。
そして、とりあえず、持ってきたお米とお菓子をこのお寺にタンブンして、
すぐに帰ることに決めた。

エイズのホスピスというと、なんとなく暗いイメージがあったのだけど、ここ
はタイのお寺。訪れる人も多いようで、事務所の中からは「はーい。お寺への
寄付はこちらですよー。」というような感じの、賑やかな声がひびいてくる。

出された紙に、住所、名前、金額などを書くと、パンフレットやDVDを渡された。
スタッフの人は、日本からも、ボランティアでここを訪れる人が居ると、英語
で話してくれた。

さて、帰ろうとして、その前にトイレに行っておこうと私は思った。
そして、そのトイレに入った時、私の心に変化が起きた。

そのトイレは病棟の横にあって、開け放たれた窓や入り口から中の様子が見える。
そちらを見ないようにして、英語でボランティア専用と書かれたトイレのドアを
開けて中に入ると、そこには、簡単なシャワーもついていた。

ボランティアの人達は、この狭い場所で毎日シャワーを浴びるのだ。
と、思ったとたん、その人達のことを貴く思う気持ちがわきあがってきた。
彼らは、何の偏見も恐れも持たずに、エイズの人達に愛を持って接することがで
きるのだ。

私にはまだそれはできない。
でもここに居る人達のために祈ることはできると思った。
そして、トイレの中で心を込めて祈った。

トイレから出た時、私の心は変化していた。
せっかくここまで来たのだから、もう少し、ここの様子を見学してゆこう。祈り
心で、微笑みを持って、この場所とここに居る人達をみつめようと思った。

ナンさんと二人でお寺の敷地を歩いていて、ついに私達はそこに至った。
それを見た瞬間、ナンさんも私も鳥肌がたった。
そして、私達が、まさにここに来るために導かれたことに気づいた。

そこには、ブッダの像があり、その前にはエイズで死んだ人の骨を布の袋に入れ
たものが、うず高く積み重ねられていた。

私達はそこで、長いこと鎮魂の祈りを捧げた。
エイズで亡くなった人達の深い悲しみや絶望をかかえた魂が、もっと光が欲しい
と言っているように感じた。

ということで私は、とりあえず今の私にできることをやれたことが嬉しかった。
そして、これからは少しずつ、私の潜在意識の中にある、エイズやその他の病気
に対する恐れを、解除してゆきたいなぁと思ったりもした。


NO.33 2008.3.25 <バーンスズキ(鈴木さんの家)>


タイに住むようになってから、あっという間に五年が過ぎて、あと一ヶ月ほど
を残すのみ。4月30日に、日本へ帰国します。

私にとって、タイでの生活は人生の夏休み。たくさん遊んだ後で、残された宿
題をぎりぎりになって、必死でやるというパターンは、今も変わらず。
そんな今日この頃、タイへの感謝を込めた、最後の活動についての報告です。

私とパートナーのヒデさんにとって、タイでの暮らしがとても快適であったの
は、家事を担当してくれる、お手伝いさんのナンさんが居てくれたおかげです。
彼女は、20代の頃から、ずっと日本人の家で働き続け、日本語が話せます。
そして、信仰心があつく、慈悲の心を持ったやさしい人です。
私は、ナンさんと友達になり、色々なことを一緒にやって互いに学びあってき
ました。

はじめの頃は、ナンさんと一緒にお寺に行って瞑想をしました。
その後、ルンビニ公園に行って一緒に太極拳を学んだりもしました。
それから、私が週に一回自宅でやっている「愉気の会」にも欠かさず参加して
もらってきました。
ナンさんは、好奇心が強く学ぶことが好きな人で、私達は、タイ人の家庭教師
のリーさんに協力してもらって、宗教について、人間について、平和について、
たくさん語りあいました。
そして、タイの平和のために一緒に祈り続けてきました。

私達は、まるで違った環境の中で育ち、それぞれの人生を生きてきましたが、
一緒に暮らし交流を深めてゆくうちに、私達の考えていること、願っているこ
とが、まったく同じであることがわかりました。
私達はお互いに、前世でも一緒に学びあった同士だったのでは、と感じました。

ナンさんは、タイの東北部のイサーン地方の、貧しい農村からバンコクに出稼
ぎに来て、家族に仕送りを続けてきました。ナンさんの故郷には、ナンさんの
お金で建てた家に、お姉さん夫婦と、その娘夫婦と、その子供が住んでいます。
私は三年前そこを訪れ、働いても現金収入が少なく、貧しい状況がよくわかり
ました。そしてその時、いくつかの小学校を見てまわり、「私にできることは
何なのか」と、考えるようになりました。

はじめの頃ナンさんは、私達の所で働いた後は、仕事をやめて寺に行き、メー
チー(尼さん)になると言っていました。それで、私達は、カンチャナブリー
にある尼寺に行ったりして、ナンさんは、ここで暮らすのかと思ったりもしま
した。
しかし、ナンさんは、私と色々なことを一緒にやって楽しく暮らすうちに、お
寺で瞑想ばかりでは飽きるし、自分が学んだことを実生活のなかで生かしたい
と、思うようになりました。
私は、タイの子供達を支援するボランティアの組織とかで働くというのはどう
だろうと考え、コンケンで「寺子屋」活動をしている人達のところへ、見学に
行ったりもしました。

いつか別れの日がきた時に、ナンさんが、これからの人生を幸せに暮らせるに
はどうしたらいいのだろう、ということが、ずっと心にかかっていたのです。

そして、去年の終わりごろ、「来年の春で五年目になるから、帰国の可能性が
あるけど、本当はどうしたいの?」と、ナンさんにたずねました。
ナンさんは、自分の故郷に帰りたい。と、言いました。そして、何か食べ物を
作って売ったりしょうと思うと言いました。
でも、正直に言うと、一つの部屋でお姉さんの家族と一緒に暮らすのは、快適
ではないのだとも。
ナンさんは、結婚もせずずっと一人で暮らしてきました。そして、彼女は一人
で静かに瞑想をしたり、勉強をするのが好きな人です。でも田舎に帰れば、そ
んな場所はなくなります。

どうしたらいいのだろうと考え悩みました。
そして、ヒデさんにお願いしたのです。

「ナンさんのために、小さな家を建ててあげてください。」と。
この五年間、私は体調がすぐれなくて寝ていることが多かったのだけど、ナン
さんがいたおかげで、どれだけ安心で助かったかしれない。ずっと一緒に家族
のように暮らしてきたのだから。と。

ヒデさんは、快く承知してくれました。私は嬉しくて感動しました。
「ヒデさんは、なんて、いい人なんだ」と心底思いました。

タイのイサーン地方の、ウドンタニの小さな村に、ナンさんの家族が住む家が
あり、そのそばに、ナンさんの住む小さな家を建てると決まった時から、楽し
い夢がふくらんできました。
私とナンさんは、そこを「寺子屋」のようにすることにしました。
私はタイ人の友達に頼んで、もういらなくなった、子供の絵本などを集めても
らうことにしました。その家に本を置いて、近所の子供達に自由に読んでもら
ったり、ナンさんが読んであげたりするのです。
子供達が、そこで絵を描いたり、字を覚えたりするのもいいし、ナンさんは、
日本語も少しぐらいなら教えられると言います。
そして、みんなで瞑想する場所にも使える。と、ナンさんは言います。

私達は、そこを「バーンスズキ(鈴木さんの家)」という名前にしました。
そして、その家が、その村に住む人達みんなにとって、ステキな場所になって
ゆくことを思うと、私はとても幸せな気持ちになります。

私は、ナンさんが子供達のお手本となり、希望の星になることを願っています。
本に接することのないイサーンの子供達に、学ぶことの楽しさ、知らないこと
を知ってゆくことの楽しさを身をもって伝えてゆくこと。
そして、お金をかけなくても幸せに暮らす知恵を持つこと。
医者にかかるお金がないのなら、太極拳とかをやって、エネルギーを取り入れ
健康な体を維持すること。
体調が悪い時は、「愉気」をすることで、治癒力を引き出してゆくこと。
そして、心静かに瞑想をしたり、祈ることで、心を平和にしてゆくこと。
これらのことは、私達が共に学び実践してきたことであり、ナンさんは、これ
からは、村の人達に伝えてゆくと思います。

そして、料理の得意なナンさんは、薬膳ということにも興味があり、体にいい
野菜などを栽培してゆくと思います。
ナンさんはすでに、お医者さんがすすめていたからと言って、お姉さん達に頼
んで、去年から赤紫のような色をした玄米のもち米を栽培してもらっています。

ということで、今その家が、少しずつ出来上がりつつあります。
帰国直前の4月27日から二泊三日、私は、集めた絵本などを車に積んで、ウ
ドンタニのナンさんの村に出かけてゆく予定です。
そのご報告は、日本に帰ってからになると思います。お楽しみに。

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バーンスズキ(鈴木さんの家)は、タイで、とても幸せに暮らした、ヒデさん
と私の、タイへの感謝の気持ちです。
でも、ここに至るまでには、さまざまなことがありました。語りきれないほど
のたくさんの出来事、そして、心の葛藤。そうしたことの積み重ねがあって、
やっと実現したのです。

私は、日本に帰ったら、自宅(鈴木さんの家)で、友達やご近所の人達に、私が
タイで、学び実践してきたことを、伝えてゆこうと思っています。
ナンさんと私は似た者同士。同じ面白たぬきです。ふふふ。


NO.34 2008.4.24 <ドラマチックなフィナーレ> その1

タイでの五年間の生活の集大成として、お手伝いさんのナンさんの故郷に、小
さな家を建て、そこを「寺子屋」として使ってもらおう。という夢が実現して、
めでたしめでたしで、日本に帰国する予定でした。
ところが、4月になってから、想像もしていなかったことが起こり、帰国直前
まで、怒涛の一ヶ月を過ごすことになったのです。

3月の中頃から、ナンさんのおなかが痛むようになり、病院に行って検査を受
けていました。
ナンさんが行く病院は、貧しい人が安く治療を受けられる国立の病院なので、
とても混んでいて、診察に時間がかり、週に一度行っては、また一週間後にと
いう風だった。
ナンさんは、痛み止めの薬をもらって飲んではいたけれど、その副作用なども
あり、体調がすぐれなくなっていました。

私はとりあえず、毎日ナンさんのおなかに手を当てて「愉気」をしました。
その時は、痛みもやわらぎ、ナンさんも気持ちがいいと言いました。
でも、そんなことではどうしょうもなくなってきました。何度目かの検査の後
で、卵巣にできものができているので手術をするということになったのです。

貧しい人が集中する国立の病院では時間がかかりすぎるので、私はナンさんに、
お金がかかってもいいから、中流のタイ人が行く他の病院に変わるように、言
ったり友達にそういう病院を教えてもらったりしていたのですが、ナンさんは
きっと次に行った時に、手術になると思うと言って引き伸ばしていたのです。
ところが、少し早めにやってくれるというその手術の日は4月22日でした。

それを聞いて、私は心を決めました。
そしして、4月4日の朝、タイ人の友達のりーさんに電話をかけ、家にきても
らい、ナンさんの通っている病院に行って、今までの検査のデータを、渡して
もらえるように交渉してもらいました。
実際にナンさんが通っていた大きな国立の病院に行ってみて、もし、ナンさん
がデータを欲しいと言っても渡してもらえなかったに違いないということがわ
かりました。
そして、やっと渡してもらえたそのデーターのコピーを持って、私達三人は、
バンコクに住む日本人やお金持ちのアラブ人、西洋人が通う私立の病院に行き
ました。そこの産婦人科なら、今可能な最高の医療がすぐに受けられるのです。

りーさんが、タイ人の医師に事情を説明し、一刻も早く手術をして欲しいとお
願いしました。りーさんは、さらに、その医師に私のこと、「バーンスズキ」
のことも話してくれました。
その医師は、「あなたはタイを好きですか。」と聞いたので、私は、「チャン、
ラック、タイ」(私はタイを愛しています。)と、答えました。

その医師はすぐに手術をしてくれる専門の医師に電話で頼んでくれて、即入院。
次の日、4月5日の朝6時から、手術となりました。
予想以上の早い展開で、三週間ほどの間、ナンさんを苦しめていた痛みの原因
をとりのぞけることになり私達はほっとしました。

それにしても、日本の病院以上に、立派すぎる病院です。ホテルのような個室
に一週間は泊ることになります。保険はきかないので医療費は高額です。
またしてもお金がかかることに対して、心の葛藤がありました。それで私が心
を決めるのがぎりぎりになったのです。

その日の夜には、ナンさんの友達のポンさんが病院に泊ってくれました。
私のいつものパターンで、決断したり実行してから、パートナーのヒデさんに、
報告しましたが、快く承知してくれて本当に嬉しかったです。

5日の早朝から、私とポンさんは、ナンさんのために祈りながら、手術とその
後のケアを受けるナンさんを待ち続けていました。
お昼すぎに、ナンさんが戻ってきたので、少しだけ「愉気」をして、私は家に帰
りました。執刀した医師の話を聞きたかったのですが、多忙なその医師はすでに
他の病院に手術をしに行ったので、次の日に来るように言われました。

4月6日の9時ごろ、病院に行き、日本人の通訳の人に来てもらって、医師の
説明を聞きました。
直径10センチ程の卵巣癌を摘出。直腸、などにも転移していて、血管の近く
など危険な場所などもあり、すべてをとりのぞくことができなかったとのこと。
これからは、抗がん剤の点滴による治療を受けるようにと言われました。
危機一髪でした。
あの日、私が決断していなければ、ナンさんは助からなかったと思います。

ナンさんの田舎からはナンさんの娘(ナンさんのお姉さんの娘ではあるけど、
ナンさんが親代わりに育てた人)が来て、これからずっと、ナンさんにつきそ
うことになりました。
私は、その日も、とりあえず「愉気」をして、家に帰りました。

ナンさんが癌になるとは、予想もしていませんでした。ついこの間まで、病気
知らずで、元気に働き、太極拳をやっていたナンさんです。「バーンスズキ」
での生活に、夢と希望をふくらませ、幸せいっぱいだったのに・・・。

それにしても、帰国直前に、こんなことが起きるとは。
不運をなげく気持ちよりも、ためされているのでは、という気持ちがしました。
この出来事は、この五年間、共に祈り瞑想をしてきた、私とナンさんに与えら
れた、試練であり、テストなのかもしれないと、私は思いました。
私はナンさんにも、そう話しました。
「二人で超えてゆこう。みんなも助けてくれるし。自分にできないことは助け
を借りて。自分にできる限りのことをやってゆこう。自分の中から力を引き出
してゆこう。きっと大丈夫だよ。」
ナンさんも、私の言葉を信じ、受け入れてくれました。
でも、頭ではそう理解できても、実際には随分辛いだろうなと思います。

私は毎日、ナンさんのために祈り、「愉気」をしました。
引越しの準備やら、友達とのお別れ会やらで、忙しくて、くたくたに疲れる毎日
でしたが、私は休み休み、なんとか乗り越えました。そして4月9日の午後二時、
ぎりぎりセーフでパッキングを終え、船便の荷物を出しました。
がらんとした家の中で、私は、すっきりとしてすがすがしい気持ちになりました。

4月11日。ナンさんの退院の日。病院には友達のポンさん、娘のトイさん、田
舎からでてきたナンさんの妹、その娘と孫などもいて賑やかでした。その日から、
トイさんも我家に来て、ナンさんの代わりに仕事をすることになりました。

そして12日の夜から、私とパートナーのヒデさんは、日本で始まる新しい生活
の準備のために、一週間ほど日本へ行きました。
退院したばかりのナンさんが、娘や友達と私達のアパートで、ゆっくり過ごせる
ように、あつらえたようなタイミングでした。

タイを離れて日本に着き、私はほっと一息つけました。
娘と一緒に、新しい電化製品を買いに行ったり、五年間しまい込んでいた布団を
干したりしていると、もうこのまま日本で暮らしたくなりました。

でも、ここからさらに、タイでの、ドラマチックなフィナーレが展開するのです。
時間がゆるす限り、リアルタイムで、それをお伝えしたいと思います。

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今回のことで、ナンさんをはじめ、この入退院にかかわったタイの人達から、
「タイ人としてとても嬉しい」と、深く感謝されました。
自分に縁のあった、たった一人のタイ人に対して、誠実に関わることは、多く
のタイ人に対して友達として好意をしめしたことになるのだと感じました。


NO.35 2008.5.31 <ドラマチックなフィナーレ> その2


タイでの五年間の生活の集大成として、お手伝いさんの、ナンさんの故郷に、
小さな家を建て、そこを「寺子屋」として使ってもらうことになりました。
ところが、帰国まであと一ヶ月という時、ナンさんが癌になり、入院、手術に
よって、一命をとりとめたのです。

そして5月22日、ナンさんのこと、引越しのこと等で、色々と忙しく大変な
日々を送る私に、ほっとひと休みの素晴らしい一日がプレゼントされたのです。
この日の出来事は、私に、たくさんの励ましと元気を与えてくれました。

五年前、タイに行くことが決まった時に、私は自分が作った歌を歌って、CD
に吹き込んで一区切りの記念としました。
そして今回、日本に帰るために引越しの荷物を整理して居た時に、五年間封印
されていた、そのCDと、私が作った歌「ファミリーコーラス」の楽譜が、ダ
ンボールの底から出てきたのです。
懐かしい思いと同時に、この歌を一度だけでいいから、仲間と一緒に歌いたい、
という思いが心の中に湧いてきました。

その仲間とは、バンコク日本人会の、文化祭での演奏を見たことがきっかけで、
一年半ほど前から参加している、ゴスペルを歌うグループ「プリックス」の仲
間です。
陽気で気さくな仲間と一緒に、ゴスペルを歌って過ごす時間は、とても楽しか
ったので、私はみんなとの別れを寂しく感じていました。

そして、22日に、私の送別会がありました。
帰国を前にして、私が体験している大変な状況について、仲間に語りたい気持
ちもありましたが、みんなと楽しく食事をしていると、それだけで幸せな気持
ちになって、辛いことは忘れることができました。
そして、食事の後に場所を変えて、みんなで歌の練習をする時に、私は、自分
が作った歌のことと、最後のお願いを語りました。

10年ほど前のある期間、私の中からいくつもの歌が生まれたこと。
それはまるで天からの授かりもののようであったこと。
楽譜もよめず楽器も弾けない私は、その中の一つの歌を歌って吹き込んだテープ
を、ある先生のところに持って行って、楽譜にしてもらったこと。
その歌が「ファミリーコーラス」で、これはアメリカで、テロの事件があった時
にできた歌であること。
そして、その楽譜が、引越しの準備をしている時に出てきたので、みんなと一緒
に歌いたいということ。

みんなは、快く私の歌を歌ってくれました。何度もなんども。
そして、とてもいい歌だから、これからも歌ってゆこうと、言ってくれました。
私は、涙がでそうなくらい嬉しかったです。
そして、さらにおまけとして、「狸のしっぽ」など、私が作ったいくつかの歌を、
12人ほどの仲間の前で歌わせてもらいました。
五年ぶりに歌う自分の歌、自分の声を、なかなかいいなと思いました。高音が出
にくくなっていましたが、この五年間に、色々と体を育ててきていたので、声の
ひびきや深さが増したように感じました。

そして、「ファミリーコーラス」の歌詞のある部分が心にひびいてきました。
この歌ができた時には、実感が伴わない言葉だったのに、今は深い思いを込め
て、その言葉を発する私になっていました。

  
  きっと私達ソウルメイト 深い魂の友達 
  何度も生まれて 何度も出あって 今ここに集うよ
  そして私思うの 喜び悲しみの日々が
  きっと 誰もが家族だってことに 気づくためにあったことを

私が心を決めたあの日、ナンさん抱きしめて、「私達は家族だよ」と言ったこ
とが思いだされました。まさに、この歌に導かれて、心を育ててきた私でした。


23日、航空便による荷物を発送しました。
そして一回目の抗がん剤の治療を受けるために、21日から入院していたナン
さんを迎えに行き、疲れているナンさんに愉気をしました。

24日の夜は、ホテルで、パートナーのヒデさんの送別と後任者の方の歓迎の
ためのパーティーがありました。
私は、美容院で髪をセットし、この日のために仕立てた、黄色のタイシルクの
ドレスを着て、ちょっと晴れがましい気持ちでした。

25日の朝、ナンさんが、「ずっとウンチが出ないので苦しい」と言うので、
特別な愉気をしました。そして午前中は、フェルデンクライスを習いたいとい
う中国人の友達に、レッスンをしたり、後任者の奥様にナンさんの友達のポン
さんを雇ってもらうように紹介しました。
午後になって、ナンさんが「まだウンチが出ないので病院に行きたい」という
ので、手術をしてくれた先生の居る病院に行き、相談しました。

26日は、ナンさんと、娘のトイさんと一緒にデパートに行って、ウドンタニ
に持っていく食料や、ナンさんのための健康食品などを買いました。
食堂で昼食をとってから、ナンさんを気功治療のパンヤ先生のところに連れて
いきました。私は手術後のナンさんに出来る限り愉気をしていたけれど、自分
も疲れてしまって、もう無理だと感じたので、パンヤ先生に託したのです。

そして、この日の夕方から夜にかけて、ヒデさんの会社で、記念の植樹があり
ました。そしてその後で、野外の会場で全従業員による送別会がありました。
アルバイトで雇われた、近くの小中学校の生徒が、綺麗な衣装をつけて、タイ
ダンスを踊ったり、従業員のバンドグループが演奏をしたり、歌の好きな人が
飛び入りで歌ったりしました。

そして、会社で働くヒデさんの写真などを編集した、ビデオの撮影がありまし
た。この五年間、ヒデさんが、とても熱心に誠実に、工場で働くタイの人達に
自分の持てるすべてを伝えようとしてきたことが伝わってきました。
私達は、それぞれに、まるで違った日々を送りながらも、この国の人々と深く
交流し、この国を愛してきたのだと感じました。

最後には大きな花火が上がったり、しかけ花火に「OTUKARESAMA」
という文字が浮かびあがったりして、盛り上がりました。
そして、2000人のタイ人従業員が手に小さな花火を持って見送ってくれ
ました。みんなの感謝の気持ちが伝わってきました。

「なんだか映画のシーンのようだね。」と、私達は語り合いました。

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5月1日に、日本に帰ってから、ずっと体が不調で、寝たり起きたりの、休み
休みの日々が続いています。
タイで過ごした、最後の一週間で、エネルギーを使い果たしたという感じです。

色々なことが、ありすぎました。
泣きたくなったり、腹が立ったり、ゆらぐ心で、それでもなんとか乗り切って、
日本に帰り着いた時は、ほっとしました。

ナンさんは、先日コンケンの病院で、二度目の抗がん剤の治療を受けました。
食欲がないのと、痛みがあるとのことでした。

ナンさんは、「この体は、本当の自分ではない。体は病気でも心は明るい」と、
言っていた人です。
今は祈ることしかできません


NO.36 2008.6.19 <タイランド編 最終回>


タイのバンコクで、丸五年過ごしました。
そして最後は、タイの田舎の小さな家、「バーンスズキ」で過ごしました。

ナンさん(タイで一緒に暮らしたお手伝いさん)の故郷に、小さな家を建て、
そこを寺子屋「バーンスズキ」として、使ってもらうことにしました。
そして、そこに看板をかけることにしました。
その看板は、私のトレードマークの狸の絵と、パートナーのヒデさんが漢字で
書いた「鈴木」という字と、タイ語で「バーンスズキ」と書かれた文字が、鮮
やかな黄色の地色にくっきり目だつ、楽しい看板です。
タイの、イサーン地方の、ウドンタニの、バーンノーンワーイタイ村に行かれ
ることがありましたら、この看板を目印にしてください。

ということで、4月27日の朝、ナンさんの引越し荷物や、タイ人の友達など
に頼んで集めた子供の絵本などを、車に積みこみました。
そして、運転手のワタナさんと、ナンさんの娘のトイさんと、ナンさんの妹と、
その孫二人は、バンコクから車で八時間ほどかかるウドンタニへ向けて、出発
しました。私と、ナンさんと、通訳をしてくれるリーさんは、少し遅れて、飛
行機でウドンタニへ向かいました。
ウドンタニの飛行場には、ナンさんの村で車を持っている雑貨屋さんの人が迎
えに来てくれました。
私達は途中で食料を買ったりして、一時間ほどで、ナンさんの村に着きました。

初めて見る「バーンスズキ」は、青い屋根の小さな可愛い家でした。
ワンルームの家の中は板張りで、ゴザが敷いてありました。シャワーを浴びる
ことのできるスペースには洋式の水洗トイレがついています。
タイル張りのベランダは広くて、深い屋根がついているので、暑い時はここで
過ごせば、とても快適です。
思い描いていたとおりの家で、嬉しくて、とても気に入りました。

近所の女の人達が、ベランダに集まって、バナナの葉とジャスミンの花で、夜
の儀式で使う美しい飾りを作っていました。
ナンさんの家には、三年前にも来ているので、顔見知りの人もいました。
私達は、ゆでたピーナッツと、ちいさなとうもろこしを食べながらひと休みし
ました。

少し雨が降ってきました。
ゴザの上に寝転がって、ここも私のふるさとなんだと、しみじみ思いました。
四時頃に、車が着いたので、近所の子供達にも手伝ってもらって、荷物を家の
中に運びました。

その日の夜は、「バーンスズキ」に、近所の人達が十数人ほど集まって、歓迎
の儀式をしてくれました。村の長老のおじいさんが、お経を唱え、集まってく
れた人達が一人ずつ、何か祈りの言葉を言いながら、白い木綿の糸を手首にま
いてくれました。そして、みんなで、食事をしました。
小さな家の中で、素朴でやさしいタイの人達に囲まれて、あたたかい時間が過
ぎてゆきました。

その夜は、ナンさんと、リーさんと、三人で、蛙の大合唱の声を聞きながら眠
りました。

4月28日の早朝、賑やかなニワトリの声がひびきわたりました。
7時ごろ、お坊さんたちが、托鉢に来るので、近所の人達は、炊き立てのごは
んやおかずを持って、靴を脱いではだしになって、並んで待っています。私も
その列に加わり、持ってきたお菓子やくだものをお坊さん達に差し上げました。
それからリーさんと二人で、買ってきてあったパンで朝食にしました。
ナンさんは、台所のある自分の家のほうに行っていて、飲み物と果物などを持
ってきてくれました。

それから、りーさんと、ナンさんと、孫のウェブ君と、散歩をしました。
(ナンさんは、結婚をしていませんが、ナンさんのお姉さんが病弱だったので、
その娘トイさんを母親にかわって育てました。それで、トイさんの息子のウェ
ッブ君は、ナンさんの孫になります。)
ナンさんの家の近くには、大きい池があり、そのほとりに、ラチャプルックの
木があり、黄色の花が咲いていました。

ラチャプルックは、2〜5月に咲くタイの国花で、フジの花のような形をして
いて、ゴールデンシャワーとも言われています。私はこの花が大好きです。
初めてタイに来た日、満開の花を見た時、この国に歓迎されていると感じて、
タイが好きになったのです。
それは、満開の桜を見る時に心の中が明るく幸せになるのと、同じ感じでした。
引越しや色々なことがあって、バンコクでは、ゆっくりこの花を見ることがで
きなくて残念に思っていたので、ウドンタニに来て、美しく咲いているたくさ
んのラチャプルックに出会えたことは、本当に嬉しいことでした。

この日ナンさんは、病気の体で無理がきかないので、自分の家で休んで、私が
りーさんに相談しながら、色々なことをすべてやっていきました。
「バーンスズキ」は、100坪ほどの土地の真ん中に砂を盛って、そこに建っ
ていますが、その周りや中身を整えていかなければなりません。
本を入れる本箱や、子供が使う小さなテーブル、壁にかける黒板、クレヨン、
色鉛筆など、必要なものを買い揃えなければなりません。そして、家の周りの
土留めの工事や、玄関までの道をつくったり、窓に格子を入れてもらったりと
いうことを、工事をしてくれている人達に頼まなければなりません。

私とリーさんと、トイさん夫婦と、ナンさんの妹は、車に乗って街まで買物に
行きました。大型スーパーや家具屋さんに行って、メモしてきたものを買いま
した。ナンさんの村には幼い子供が居るので、ボールやプラスチックのままご
とセット、シャベルなども買いました。
それは、私が幼い時に買ってもらったのと同じような、ほんの少しの、安くて
ささやかな、おもちゃです。
それから、缶に入ったクッキーと、飴も買いました。

車の中では、みんなが楽しげにおしゃべりをしています。東北訛りの言葉のよ
うです。それをりーさんが時々日本語に訳してくれます。
誰かが、「こんどは、いつ来るの」と私に聞きました。
「庭にバナナの木を植えて、それが大きくなって食べられる頃かな。」と私。
「それなら、はじめから大きいバナナの木を植えればいい。」と、誰かが言っ
てみんなで笑いました。

家に帰って、本箱に本を入れると、子供達が集まってきて、本を見始めました。
集めた本の中には、大人用の雑誌なども混じっていましたが、りーさんが、本
棚に大人用と書いた紙を張ってコーナーをつくりました。
子供だけでなく、大人もここに来て本を読んだりすればいいね。ということで、
「バーンスズキ」は、子供も大人も集う場所になりました。
そして、子供を連れたお母さんもやってきました。

その夜は、りーさんと、ナンさんと、三人で、夕食を食べ、眠りました。

4月29日の朝、目を覚まして、思いました。「今日は私の誕生日だった。」
ナンさんにそのことを言うと、「それならお坊さんが托鉢に来た時に、特別の
ものを用意しなければならない。」と言って、あわただしく出ていきました。
そして家のそばのお店で買ったものを、用意してくれました。
托鉢のあとで、ナンさんに連れられて、近所に住んでいる百歳ぐらいのおばあ
ちゃんの所に挨拶に行きました。おばあちゃんは、お祈りの言葉をいいながら、
ナンさんが用意した木綿の糸を私の手首に巻いてくれました。

そして、ナンさんは朝食にカレーを作っていました。
朝からカレーなの?それも日本のバーモントカレー。
(それは、ナンさんにとって、大好きなごちそうだったのです。)

そして、いよいよはじめての寺子屋活動です。
待ちわびていた二十人ほどの子供達を集めて、昨日買ってきたものを机に並べ、
「みんなで仲良く使ってください」と、言いました。
それから、ベランダの壁にかけたホワイトボードに、たぬきの絵を描き、私の
名前と「たぬき」というニックネームをりーさんに、タイ語で書いてもらって、
自己紹介をしました。

小さい子はままごとで、大きい子は本をみたり画用紙に絵を描いたりしました。
私は買ってきたボールで、日本の「まりつき」を教えてあげました。タイの子
供にとって初めての体験で、なんだかぎこちなく難しそうでした。
それから、「けんだま」と「お手玉」も、教えてあげました。

私は、子供達と一緒に居て、とても幸せな気持ちになりました。
おやつには、クッキーが二枚と飴を二個配りました。

そして最後に、実は今日は私の誕生日だということを話して、みんなにお祝い
の歌をうたってもらいました。
ナンさんの妹が音頭をとって、「ハッピーバースディたぬきさん」と、なんど
もくり返して歌ってくれました。それから、ナンさんの妹の孫で中学生のエム
さんが、タイの歌をうたってくれました。

本当は、もっとゆっくりしていたかったのですが、11時ごろに家を出ました。
ナンさんと、ナンさんの妹とエムさん、トイさん夫婦とウェッブ君が一緒に車
にのって行きました。
足りなかった、テーブルを買い足したりして、用事をすませてから、みんなで
アイスクリームを食べました。パフェを食べたウェッブ君は大喜びでした。

空港では、別れを惜しんで、みんな、泣きながら別れました。

そして、バンコクのアパートに着くと、すぐに引越しの荷づくりでした。
最後まで使っていたものがかなり残っていて、夕食もそこそこに片付けました。
この日は、ホテルに泊まる予定だったので、途中まででホテルに行きました。
夜には、ヒデさんが、誕生日のケーキではなく、アイスクリームを買って来て
くれました。美味しくてたくさん食べました。

4月30日の朝、ホテルで早めの朝食をすませて、アパートへ。
ひたすら、荷造りと片付けを続け、お昼ごろにやっと終わりました。
アパートの点検もすませ、ぐったり疲れてホテルへ。
少し休んでから最後のお別れに、中国人のパンヤ先生に会いに行きました。
また、ホテルに戻って、ベッドに入って眠りました。

もう、このままずっと眠っていたいぐらいでしたが、最後に少しだけ、タイの
お土産を買いに行きました。そして、ヒデさんが会社でお世話になった人達と、
夕食を食べました。私のためにケーキを用意してくださっていて、感謝でした。

それから、飛行場に行きました。バラの花束をもらって、みんなに見送ってい
ただきましたが、私は立っているのがやっとという状態でした。
真夜中に出発する飛行機に乗った時は、一刻も早く離陸して、イスを倒して眠
りたいと、ただそれだけでした。
それでも、この五年間に、色々なことをやり遂げることができた喜びが、私の
心を明るく充たしていました。


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タイでの出来事を、報告しないうちは、なんとなく一区切りがつかないような
気がしていました。
少しずつ回復している体に相談しながら、やっと最後まで書くことができまし
た。

日本での生活は、ゆっくり、少しずつ、スタートしています。
しっぽの先まで、ピンピンにエネルギーが充電されるには、もう少しかかりそ
うですが、心は明るく幸せな気持ちで毎日を過ごしています。

日本は、緑の美しい季節ですし、何を食べても美味しいです。
まさに、母国に抱かれ、癒されているという感じです。